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家畜人ヤプー:真の自虐史観のために

「自虐史観」という言葉が、公然と使われるようになって久しいが、沼正三『家畜人ヤプー』は、「自虐史観」という言葉を安易に用いる者が決して到達することのない徹底性を帯びた、美しくも厳しいマゾ小説である。

『家畜人ヤプー』の主人公は、ドイツに留学中の瀬部麟一郎と、その許婚者クララ・フォン・コトヴィッツ嬢だが、とあるUFOの落下に巻き込まれ、二人は未来人によって二千年後の世界に連れて行かれてしまう。

麟一郎とクララが連れて行かれる二千年後の世界は、「百太陽帝国(EHS)」と呼ばれる白人宇宙帝国の支配下にある。この帝国の統治原理はレイシズムであり、支配者である白人(とりわけアングロ=サクソン)だけが唯一人間と認められ、黒人は「半人間」、黄色人種(とりわけ日本人)は家畜やモノとして扱われる。

東ドイツの貴族の家系出身とされるクララは、フォン・コトヴィッツというドイツ風の名前から、コトウィッツという英語風の名前に改名することは余儀なくされるが、その美しく、また大柄な体格から、二千年後の世界の基準でも白人、なかでも貴族として取り扱われる。いっぽう、麟一郎は、東大法学部出身で柔道の達人という、文武両道に秀でた青年でありながら、頬骨が出ており身長もクララより低く、つまりは黄色人種(さらには日本人)であることから、家畜として人工的に身体を改造される憂き目にあう。そもそも麟一郎だけでなく、二千年後の日本人は、白人の肉便器(セッチンと呼ばれる)となった天皇を筆頭に、白人に奉仕することを至上の名誉とする家畜の群れ=ヤプーとして皆生きているのである。

『家畜人ヤプー』の全篇は、人種平等を旨とする二〇世紀の世界から、レイシズムが社会の原理となった二千年後の世界にタイムスリップしたことで引き起こされる、麟一郎とクララの関係の変化を軸に、語られている。いったいこの二人は、時空を超えて愛を貫くことができるのか。一見したところ、答えは早々に出ているように思われる。すなわち、クララは、二千年後の世界における支配種族の一員としての自覚を、ほぼ一昼夜で手に入れ、未来社会での周囲が勧め、また当然だとも言う、麟一郎の家畜化を受け入れるのである。だが、この家畜化は、二人の愛の終わりなのか? この問いのへの答えを、本作の最後で、作者は読者に委ねてしまうのであるが、思うに、「(黄色く醜い自己の)家畜化を(白人の)愛として受け入れよ!」という命題こそ、マゾ小説としての『家畜人ヤプー』が馥郁として発散するメッセージである。

糞尿嗜好や、肉体の畸形化、そして男女の性別役割の逆転(二千年後の支配者は女性であり、男性は現在の女性と似た地位にある)といった要素を『家畜人ヤプー』は含んでいるが、そういった点は今回は正面から取り上げない。その代わりに触れておきたいのは、記憶喪失という論点である。肉体の畸形化、さらには素材化(例えば、日本人の肉体は、建築資材にすらなっている)の非人間性がこれでもかというぐらい執拗に描き出され、そしてそうした目にあっているのは読者よ、あなたの同胞である日本人なのだぞという”民族的”呼びかけが『家畜人ヤプー』のかなりのページ数を占めているのであるが、そうした呼びかけの強烈さに比べるなら、この記憶喪失という論点は、一見それほど目立たないものであるかもしれない。

『家畜人ヤプー』に出てくる記憶喪失は、まず第一に、クララの処世術としての記憶喪失である。すなわち、時間旅行のテクノロジーを確立したことにより歴史をも支配するにいたった二千年後の人類(=白人)は、過去の人間を自分たちの世界に連れてくることは法律で禁止している。この基準に照らせば紀元40世紀におけるクララの存在は違法であり、この違法性を覆い隠すために、クララは記憶喪失を装い、「私、クララは白人宇宙帝国の貴族の出だが、はるか昔の20世紀を時間旅行するなかで、現代世界と自分についての記憶をすべて喪失してしまった」という演技をするのである。麟一郎とクララの愛はどうなるのか、という筋書きから見ると、処世術としてのこの記憶喪失という演技がいつしか演技でなくなり、本物の未来人(日本人家畜視を当然とする)になってしまうのではないかという不安――麟一郎および日本人(男性)読者の不安――が、筋書き全体を支える一方の柱となっている。

だが私たち、ヤプー化の不安を共有しながら本作を読む日本人(男性)読者にとっては、もうひとつの記憶喪失が重要である。すなわち、日本の起源にかんする20世紀日本人の記憶喪失であり、この点を、『家畜人ヤプー』は、学術論文に特有の博引旁証のパロディをもって突いている。本作で開陳される、白人の宇宙支配を弁証する歴史観によれば、そもそも日本に固有とされる言語や文化の構成要素は、ほとんどが未来の白人文化からの遡行的影響によってもたらされたものである。時間旅行のテクノロジーをもつ白人宇宙帝国は、将来の家畜化に好都合なように、記紀神話や日本の現実の歴史に介入してきた。天照大神は、アンナ・テラスという名のアイルランド系女性であり、三種の神器は、アンナが古代日本人に与えた時間送話機(鏡)や受信機(勾玉)に他ならない。これだけならば、いかにもSF的な設定というに留まるが、『家畜人ヤプー』にはこうしたSF的な設定の他に、さきに簡単にふれたSM的な糞尿嗜好の要素も付け加わる。例えば、天皇家の紋章が菊花であるのは、白人宇宙帝国のアン女王の肛門を模したもので、これは自分たちの首長が白人の肉便器になるという日本人の「種族的未来予知(レイシャル・プレコグニション)」(38章-2)を表すものだというのである。

『家畜人ヤプー』が観念小説とか政治小説とか言われるのは、国家神道がかつて喧伝した日本の起源神話にたいする、こうしたマゾヒスト的、自虐的な書き換えの次元が含まれているからであろう。被虐趣味や糞便嗜好といった性的な次元を導入したがゆえに、こうした書き換えは、一見したところ、単なる悪ふざけのように見える。しかしそうした次元をいったん取り除くならば、『家畜人ヤプー』における歴史の書き換え、いな真の自虐史観の発見は、戦後の日本人が多少とも共有したに違いないトラウマに触れてもいるのである。じっさい、『家畜人ヤプー』には、主人公である麟一郎の幼年時代について、つぎのようなエピソードが挿入されていた。

麟一郎は、物心付くか付かぬかの幼児時代、父親と一緒に街を歩いていて、進駐軍兵士(ジー・アイ)の腕にぶら下がっている、毒々しい化粧をした若い女に道を譲らされた父が、「ふん、パンパンめ」と呟き、それを聞き咎めた女が兵士に告げて、父が殴られるのを見た。幼児にとって父親は力の象徴である。その父が殴り倒されても、抵抗しなかった。麟一郎は父とそのことについて二度と話したことはなかったが、その時の情けない父の姿は、殴らせた女が「なによ、日本の男なんて、みんな不甲斐なしじゃないか」と蔑んだ声で父を罵ったのと併せて、彼の精神的外傷(トラウマ)になっていた(47章-2)

二千年の時を超えて、麟一郎が見出すのは「結局、あのパンパンの言ったとおりだった」ということである。未来社会における麟一郎以外の日本人、すなわちヤプーたちが、優れた家畜として白人から認められるために涙ぐましい努力をし、ヤプー社会の全体がこれを後押ししているというだけではない。二〇世紀に戻るか否か選択する機会を、最後にクララから与えられるにもかかわらず、(さまざまな薬剤や肉体改造がその精神に影響を及ぼしていたとはいえ)麟一郎はみずから、白人宇宙支配の正しさをクララに向かって力説し、自己のさらなるヤプー化(=畸形化と隷従)を望むのである。
かくして、白人への屈従を欲望する、種族的本能としての「ヤプー・ファクター」の発露をもって『家畜人ヤプー』のストーリーは閉じられるのであるが、作者はこの結末に、むしろ明るい、肯定的な調子を与えている。そこにあるのは、新しい運命に立ち向かう若い二人――正確には一人と一匹――のイメージであり、飼い犬リン(かつての麟一郎)と白人宇宙帝国の重鎮政治家となったクララ・コトウィッツの勇敢なる出世譚である。マゾヒストにとってのユートピアがここに完成する。

 白人の慈畜主義(チャリティズム)という架空のイデオロギーを設定することで、現実の欧米に見られる人種差別的偽善を連想させ、返す刀でかつて国家神道が喧伝した日本の起源神話をパロディ化する。『家畜人ヤプー』の政治的な意味合いには、確かにこうしたイデオロギー批判の次元が含まれるだろう。ただ、惜しむらくは、今日の「ネットで真実を発見した」「普通の日本人」は、パロディ化できるほどに構造化された記紀神話の教養など脳内に持ち合わせてはいない。オヤジギャグ的な言葉遊びによって捏造した語源を未来の文献から「引用」してみせる、沼氏の衒学的ないし主知主義的なパロディの方法は、記憶喪失に陥ったゼロ年代的日本の読者相手では機能せず、ただただ欧米批判とエログロの部分だけが強調されかねない。だが、その点は、あまり心配するには及ばないのかもしれない。なぜなら、昨今の言論の成り行きからは、こうした日本の起源神話を再び教養として、体系的に、注入する方向へと、世間の風が吹いているようにも予感されるし、より根本的には、そもそも、作者自身、真の自虐史観が社会の多数派のものになることは決してないと確信しつつ、ヤプーという存在を造形したのに違いないからである。

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クリスティーヌ=ビュシ・グリュックスマン

フランス公共ラジオのラジオ局、フランス・キュルチュールが、クリスティーヌ=ビュシ・グリュックスマン(哲学者、パリ第8大学名誉教授)の特集番組(5回)を組んでいる。

Ch.Buci Glucksmann

Ch.Buci Glucksmann

Christine Buci-Glucksmann by Joseph Nechvatal

ここ数日間(2012年2月13日から17日)、番組を聞いて楽しんだので、まとめておきたい。

第1回  「全てを読む場」としての高等師範学校、アルチュセールとその周辺

第2回  68年5月直前の知的状況。マルクス主義文学批評におけるルカーチ主義者vsブレヒト主義者(グリュックスマンは後者)。青年、学生、知識人の側と労働者階級の合同の失敗としての68年5月体験。フランス共産党によりイタリアに派遣されたにもかかわらず、スターリン主義に批判的なイタリアの労働者評議会や共産党にむしろ共感。アジェンデ政権時代のチリにも滞在、『グラムシと国家』はこの時代のチリの闘士たちに捧げられている。グラムシにおけるフォーディズム概念、スピヴァックによる利用への言及(従属階級=サバルタン=の歴史)。中絶合法化運動への参加→フランス共産党との絶縁

第3回  1980年:プーランザスの自殺、アルチュセールによる妻の絞殺。トラウマ的体験→あるマルクス主義の死。同時に左翼ミッテラン政権の成立。しかし、ポスト●●主義を探すのではなく、しだいに美学に戻ることになった。「暗い時代」のベンヤミン。国際哲学学院における美学講義。ベンヤミンにとってのバロックとは、「歴史の天使」がふりかえってみつめている廃墟=ナチズムがもたらすカタストロフ=である。「充溢」のバロックがある一方で、「空虚」のバロックがある。「上方に向かっての落下」→内在性の美学:哲学者がよくやる美的なものを「統御」しようとするカテゴリーを作る美学ではない。感性的なものは思考を強いる。

第4回   東京と京都での滞在。京都~谷崎『陰翳礼讃』。神道のアニミスム的シンボリスム。東京で生きることとは、「無限の表面」「時間を見ること」だった。線形的な時間ではなく、リゾーム的時間。西洋的超自我が法だとすると、日本的超自我は紐帯(きずな)…。「それは何か」ではなく「それはいかに」が日本の提起する哲学的問題。

第5回 イスタンブール滞在。「私の私にたいする空間」としてのマルマラ海。子供の頃、東洋学者の父のカリグラフィーを見て育った。「欲望における持続」(スピノザ)。普遍性とは、私のしていることのなかに、他者がいるということ。私にとっての単独性とは、文化における女性的なものの肯定。

以下、フランス・キュルチュールのサイトから説明を抜き書きする。

クリスティーヌ=ビュシ・グリュックスマンといえば、グラムシの獄中ノート論である『グラムシと国家』(1975年)や『左翼・権力・社会主義』(プーランザスへの追悼論文集、1983年)がマルクス主義国家論の分野では知られている。『グラムシと国家』は、当時フランス共産党の雑誌であった『ヌーヴェル・クリティック』の特派員としてイタリアに滞在するなかで執筆された。『グラムシと国家』の成功によって、クリスティーヌ=ビュシ・グリュックスマンはメキシコからアルゼンチンにいたるラテンアメリカを訪問することになった。そのなかで、政治活動家であった彼女は、スペイン語圏のバロック建築の壮麗さをも見出すことになった。

1980年代の政治的転換は、クリスティーヌ=ビュシ・グリュックスマンにとって、美学研究に復帰するという点で、個人的な転機をももたらした。ソー市のラカナル高校の受験準備学級で教鞭をとりつつ、国際哲学学院(Collège international de philosophie)の設立に参加した。ボードレールとベンヤミンの再読に取り組みつつ、『バロック的理性』(1984年)『見ることの狂気』(1986年)などバロック芸術についての専門的な業績をあげた。

バロック芸術についての業績によって、クリスティーヌ=ビュシ・グリュックスマンはフランス外務省の奨学金を得て、京都のヴィラ九条山に1988年、滞在し東京大でも教鞭をとった。日本において見出された時間や内在性に対する関係は、『儚なきものの美学』(2003年)に結実する。最近の著作としては、東洋学者であった父の足跡を追うなかで訪れたイスタンブールから着想を得て書いた『装飾の哲学 東洋から西洋へ』(2008年)がある。

参考動画

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『聖杯伝説』の物語と若きアルチュセリアンたち

Here we publish a Japanese translation of the article by Daniel Fairfax, “The Tale of Perceval le Gallois and the Young Althusserians” originally published in the online journal  Sences of CinemaIssue 54, 2010. We thank the author and the editor of the journal for their kind permission.


以前に、Twitter上で井上亮さん@rinopoご教示いただいた論文の全訳を掲載します。原文はこれです。なお、原著者であるダニエル・フェアファックス氏、および掲載誌の『センシズ・オブ・シネマ』から掲載許可をいただきました。記して感謝します。なお、翻訳間違いなどご指摘いただけましたら幸甚です @kazouille

日本語訳(Japanese Translation; PDF File)

聖杯伝説と若きアルチュセリアンたち

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『現代ドイツ政党政治の変容』

工学院大学の小野一さんから『現代ドイツ政党政治の変容』(吉田書店)をいただく。福島原発事故が起きた当事国の日本で、脱原発への道筋がはっきりと見えない中、いち早く脱原発を表明したドイツ。本書は、「左翼であるとはどういうことか」(1頁)という問いから出発しつつ、脱原発に象徴されるような「進歩的なエネルギー政策」が、伝統的な社会民主主義の政治に収まりきるものではなく、むしろ「部分的には新自由主義的な価値の担い手とも重なるのではないか」(129頁)と問題を提起する刺激的な論考。ベーシック・インカム論をめぐり、フランスのRMI(参入最低所得)にも触れられている(第6章)。情報量が多く勉強になり、かつ著者の政治的志向に個人的にふかく共感した一冊。

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守る

執筆者のおひとりである鵜飼健史さんから杉田敦責任編集『守る 境界線とセキュリティの政治学』(政治の発見 7)風行社、2011年、をいただく。「私たちがいま暮らしのなかで疑問に思うこと」から出発するという本シリーズは、総じて具体的なトピックを素材に、政治学や、より広くは社会科学において基礎的とされてきた概念が、どのようにいま輪郭線を変えつつあるかという問題を扱っているように見える。本書においては、それは例えばセキュリティの問題を問う納家論文(納家正嗣「リスクの越境と政治の境界」)に当てはまるであろう。個人的には、冒頭の諸章で分析されている主権論の問題に興味を惹かれた。主権の概念は、現代の民主主義が(絶対主義を基本的には源流とする)近代国家のなかに埋め込まれていることから、前述のような輪郭線のゆらぎを論じるさいには避けて通ることができない。しかし一方で、法学的な意味での制度論から一線を画すという点を学問上の特質としてきた政治学にとって、主権論というのは案外、正面からぶつかるのが難しい領域であるのかもしれない。本書では、第二章の鵜飼論文(鵜飼健史「主権国家の意義?」)、そしてとくに第三章の中村論文(中村研一「主権のゆらぎ」)においてこの問題へのまとまった取り組みが見られる。これらの取組みにおける問題の整理を踏まえたうえで、ボーダンの国家論を原語で通読するという(一学徒としての)宿願を、何とか果たしたいとあらためて感じた。

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模索する政治

編者のおひとりである堀江孝司さんより田村哲樹・堀江孝司編『模索する政治 代議制民主主義と福祉国家のゆくえ』ナカニシヤ出版、2011年、をいただく。「篠原〔一〕先生か田口〔富久治〕先生の孫弟子」によって「執筆者のほとんど」が構成されている本書は、「広い意味でデモクラシーや福祉」への関心を共有する視点から書かれている。ヨーロッパではイギリス、スウェーデン、ベルギー、フランス、イタリア、そしてEUがカバーされており、それ以外の地理的領域としてはアメリカ、カナダ、日本が扱われている。「アラフォー」である私(大中)としては、新しい社会運動(NSMs)以降の民主主義の模索というテーマには共感できるところが多い。堀江さんの論文「労働者・市民・生活者」では、労働組合(連合)の勤労者の代表者としての資格を、社会民主主義政党(社会党→民主党)との関係性のあり方をなぞりかえしつつ問うている。新しい社会運動が提起した脱物質主義的価値観は、各国・各地域の政治的現実のなかで、どのように実現され、あるいは実現されなかったのか。そのような関心をもつ読者にとって、各分野の研究のフロンティアを概観できる優れた本である。

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ヴィクター・コシュマン『戦後日本の民主主義革命と主体性』

訳者である葛西弘隆さんからヴィクター・コシュマン『戦後日本の民主主義革命と主体性』(平凡社、2011年)を頂いた。つねづね感じているのだが、日本人だからといって日本のことを知っているとは限らないし、外国人だから日本のことを知らないとも限らない。逆に日本人だからといって、外国のことについて、その国の人以上に知ることはできないと初めから諦めるのは間違いだと思う。対象が概念的に画定されている限りにおいて、その対象を(国籍を超えて)知ることは可能だし、元来研究とはそうしたものではないだろうか。翻訳とはなぜか労多くして功少ない作業であるが、それだけに「人びとの戦後政治思想史への、そして民主主義政治への新たな関心と理解を深める一助」になって欲しいという「訳者あとがき」の言葉に実感がこもる。良い本は、端的に訳されなくてはならない。

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